12月 3rd, 2009

「子どもゆめ基金」廃止について思うこと。

民主党が進めている「事業仕分け」で、子どもの読書推進を目的に設立された『子どもゆめ基金』の廃止が決まりました。日本国内で子どもたちの読書推進活動や読み聞かせに関わっている方々からは、反対の声も多く聞かれます。

けれど、私はちょっとだけ、違う方向から『廃止』を受け取っています。

私のように海外で日本語維持に関わっている場合、普遍的なテーマとしての

「子どもたちに本を読んでもらうためには、どうすればいいか」

という問いと、それから

「子どもたちの日本語を継承してゆくには、どうすればいいか」

という二つの、微妙に関係するような関係しないような問題が同時に存在してきます。ここが、難しいのです。「日本語を忘れてしまっても、在住国の言葉(私の場合は、英語)で読書が出来ていればいいじゃないか」という意見だって、海外に永住予定の場合には十分に正当で、むしろそのほうがいい、とする向きもあるからです。

だとしたら、子どもたちには、早くから英語に馴染んでもらった方がいい。日本語の文庫などより、英語の良質の絵本を集め、英語での読み聞かせを推奨して、無尽蔵にある英語の本に向かわせる努力をすればいいじゃないか。

読み聞かせか日本語維持か。私のやっていることは大きな矛盾をはらんでいます。ねじれたゴムが戻ろうとするのを必死に押さえ込んでいるような不自然さ、横車を押しているような理不尽な感じ、がいつまでもいつまでも残るのです。

この不自然さを乗り越えるために、私はいつも、周囲に、「日本語維持は本能の成せる技なんだよ」と、伝えることにしています。人間にもやっぱり種の保存の本能があり、『言葉を使う』という行為は、その有益性がゆえに、食べ物を得るとか子孫を作るとかと同じように種の保存の法則に則って親から子へ伝えられるようになってきたのではないかと思うのです。

言葉を使い、読む力を養うことで、ヒトは生きる力を蓄えてゆきます。そうすることで、私たちの遺伝子は他より少し強くなり、生き残る確立が増します。

そうおもうとね、やっぱり、本来、読み聞かせって親と子に始まるべきものなのじゃないのかなって、思ってしまうのですよね。だとしたら、読み聞かせが必要なのは、子どもたちだけではないんんじゃなかろうか。本能を忘れてしまった大人たちへの働きかけもまた、重要なんじゃないだろうか。

子どもゆめ基金の内情がどうだったのかは知りませんが、少なくとも「子ども」だけを対象にしてしまった時点で、大切なことの半分をとりこぼしてしまっていたんじゃないかな。基金を使ってイベントや講座を開催したとして、その情報は果たして「読み聞かせに興味のない大人」にまで届いていたでしょうか。結局、「元々興味がある大人」にまでしか届いていなかったのではないでしょうか。

もちろん、読書推進も日本語維持も、結果が出るまで時間がかかる活動だけれど、でも、だからといって3年、5年といったスパンでの結果が重要でない、というわけではないはずです。今回の事業仕分けで、子どもゆめ基金が「結果を出していない」と評されたのは、その辺の詰めの甘さがあったのではないでしょうか。

子どもたちを読書の世界へ誘うのは、大切な社会的投資です。
だからこそ、聖域にしてしまってはいけない。子どものためだから、だいじなことだから、というスローガンが免罪符になってはいけない。結果度外視ではいけないのだと思います。

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