3月 5th, 2010

ニュージーランドの皆さんへ。National Standardsをご存知ですか?

ニュージーランドの小学校で、この2月に始まった新学期から、National Standardsと呼ばれる新しいシステムが導入されたことを、ご存知ですか?

National Standardsは、学習到達度を測るための国の定めた基準値です。
英語(Literacy)と算数(Numeracy)について、Year 0(5歳)からYear 8(13歳)までそれぞれの学年で期待される到達度レベルが示され、子どもたちは、基準に沿ったテストを受けて到達度を測られます。
その結果は、親に通知されることになっています。

私は、個人的に、このシステムの導入を危惧しています。
私たちの子どもたちのように、英語が第一言語でない子どもに不利に働くケースが多く出てくるのではないか、と思っているからです。

家庭で日本語を話している場合、学校に入学した最初の2-3年に関しては、英語はどうしても遅れ気味になります。同じように一年間学習しても、それでネイティブの子が求められるレベルに到達するケースは、子どもにも因りますが、おそらく、多数派ではありません。

政府は、ESOL対象の子どもたちに関してはThe English Language Learning Progressions という
別の基準を使う、と言っていますが、この基準からNational Standardsへ基準を切り替えるタイミングは、
学校に一任する、とされています。

ニュージーランドには、英語を第一言語としないこどもたちに英語の取り出し授業をするESOL(English for Speakers of Other Language)というシステムがあります。このブログを読んで下さっている方々のお子さんにも、このESOLを受けた方は、多くいらっしゃるのではないでしょうか。
ところが、このESOLの運用は、学校や教師の裁量に任されている部分が大きいため、運用の状況に大きなばらつきがあります。まあ早い話が、ESOL対象の子は、こっちの学校に行けばすぐにESOLを受けられるけど、あっちの学校に行っちゃったらなかなか受けさせてもらえない、なんてことになってるわけです。

うちの息子は、最初に入った学校では、半年間の間、結局ESOLを受けさえてもらえませんでした。ESOLを必要とする子どもの数が多く、順番が回って来なかったのです。今の学校は、転校手続きをした直後に教育省に連絡を取り、息子のためのESOLの予算を確保して、待っていてくれました。最初の学校での半年間は、彼の今までの人生の中で、最も辛い時期だった、と、最近になってやっと、本人が言ってくれるようになりました。

現状のESOLさえ公平に働いていない状況で、National Standardsの導入により、更に学校やクラス担任の裁量に任せる部分が大きくなってしまうことに、私は不安を禁じえません。子どもたちの英語のレベルを見誤り、間違った基準で判断したり、その結果、成績が取れないことで子どもたちに劣等感を抱かせてしまったり、といったケースが出てくるのではないでしょうか。

5歳で学校に入った後の2-3年間、ESOLの子どもたちに必要なのは、

「不自由な言葉で話しても、だれも自分のことを笑わない」

という環境です。その環境に身を置くことで、徐々に英語への自信を深め、友達と関わることで少しずつ言葉を確保してゆくのです。

テストで評価されるようになったとき、子どもたちは、特に英語環境に入りたての5-6歳の子どもたちは、果たして、「だれも自分のことを笑わない」環境に身を置いておけるのでしょうか。

また、同じESOL対象の子どもでも、母語がフランス語やスペイン語の子と、日本語や韓国語などが母語の子とでは、母語と英語との距離の差から英語の伸びに大きな開きがあるのが普通です。
The English Language Learning Progressionsは、英語が母語でない子の第二言語としての英語の発達を数値化し階層化したガイドラインです。でも、このガイドラインは、そういったところまで考慮してくれるのでしょうか?

「この間までいたフランス人の子は、2年でこのくらい伸びたわ。お宅のお子さんは、ちょっと伸びが遅いわね」

というのは、世界中の日本語が母語の親子によく浴びせられる誤解だということを、一体何人の教師が知っているのでしょうか。

子どもひとりひとりのバックグラウンドを無視して共通の基準値を持ち込み、それで子どもたちの能力を測る、という試みは、私にはいささか乱暴に思えます。せっかくのニュージーランドの「個を見る教育」の良さが失われてしまうような気がしてなりません。

もう一つ、とても危惧していることは、このテストの導入が子どもたちに対して英語のプレッシャーを与えかねない、ということです。

子どもたちは、National Standardsの内容に沿ったテストを受け、到達度を測られます。結果は学校の評判を大きく左右するでしょう。ESOL対象の子どもたちの英語の成績が振るわなかった場合、学校側が成績(評判)を上げるために

「日本語ではなく、家庭でも英語を」

という論調を再度、復活させてくるような気がするのです。

しかし、ESOL対象の子どもたちの英語の力を伸ばすために必要なのは、10歳くらいまで母語の力を年齢相応に保つことです。そのことが結局、将来の英語力や理解力、思考力に影響してくる、という説が、現在の主流です。ですから、5歳、6歳、といった、まだまだ母語が未完成な段階で第二言語としての英語力を測る、という考え方は、母語維持の観点からみると、とても危険なのです。母語が未完成な子どもたちに不必要な英語のプレッシャーをかけ、その結果ますます、将来の英語力がしぼむ、という結果になりかねないのです。

National Standardsに対する反対署名活動を行っている団体が二団体あります。
ひとつは、ウェリントンの任意団体。
もうひとつは、hands Up for Learningという団体です。興味のある方は、このブログにコメントを残して下さい。コメントは、私承認なしには公開されない設定になっています。コメントを頂いた方には、追ってこちらからご連絡差し上げます。

私は、今月の保護者面談で、自分の息子に対するNational Standardsの適応を、彼がY5(10歳)になるまで待ってもらうよう、学校と交渉するつもりです。

12月 27th, 2009

「りんごのきの本棚」更新しました。

設置したはいいけれど、ずっと放りっぱなしになっていた「りんごのきの本棚」、やっと少しだけ更新しました。お勧めの絵本を年齢別に分けて表示してあります。トップページ上部の「タズマン子ども文庫りんごのき」にカーソルを合わせると、本棚ページへのリンクが表示されます。

本の画像をクリックすると、Web本棚サービス ブクログ の紹介ページへとびます。いろんなレビューが読めますよ。

12月 25th, 2009

Official NORAD Santa Tracker

Official NORAD Santa Tracker.


NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)の
サンタ追跡プログラムが、今年もサンタさんの位置を実況生中継してくれています!

年に一度だけのお楽しみ。サンタさんが地球を一回りするまで、あと17時間です。


12月 10th, 2009

海外で日本語・ちょっと横道の『絵本』のはなし その1

ところで、ご自宅に何冊、日本語の絵本がありますか?

ちょっと横道。絵本の話です。

絵本に注目したのは、もちろん、日本語維持に絵本の読み聞かせは欠かせない、と思っていたからでもありますが、以前から絵本好きだったことが、大きく影響しています。自分自身が、絵本に囲まれた生活をしたかったのです、たぶん。

でも、息子を絵本の読み聞かせで育ててきて、私には、日本語維持とか言葉の力とか、そういうものをはるかに凌駕するこころのパワーを得ることが出来た、という実感があるのです。日本語の力ももちろん、つきましたけれど、だけどそっちは、おまけ。

私がはじめて、絵本の力に気がついたのは、読み聞かせを始めて2か月後。息子が13か月の時です。まだ歩けませんでした。

床に散らかした絵本の間をハイハイで行ったり来たりしながら、時折じっと表紙を見つめたりする息子を見ていて、なにげなしに、

「いないいないばあ、は、どれだっけ?」

と、声をかけました。息子はさっと、「いないいないばあ」の絵本までハイハイしました。お、わかってるみたい。それとも偶然かな。初めての子どもで、まだ13か月です。当時の彼の語彙は、他人にはとても聞き取れない「おかあさん」「おとうさん」「まんま」っきり。私の中では、まだまだ息子は「わからんちん」、何がわかってるんだかわかってないんだか怪しい、知性に乏しい存在でした。

「じゃあ、わたしとあそんで、はどれ?」

これも、間違えませんでした。息子は何の迷いもなく、その絵本に突進しました。

読み聞かせを始めて2か月で、息子は当時持っていた30冊あまりの絵本の表紙とタイトルをすべて記憶していました。中には、1歳児が好むとはとても思えないような、モノクロ挿絵の地味な本などもありました。内容が難しくて、最後まで聞いてくれないものもありました。それでも、それが一冊一冊違った『本』であり、読んでもらえば違ったお話が出てくるのだ、ということを、きちんと認識していたのです。知性は、親が思うよりもはるかに高いレベルで育っていました。

絵本って、すごいのかも。

と思った瞬間でした。

当時持っていた本たちの一部です。

いないいないばあ (松谷みよ子あかちゃんの本) おふろでちゃぷちゃぷ (松谷みよ子あかちゃんの本) いいおかお (松谷みよ子あかちゃんの本) もりのなか (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本) わたしとあそんで (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本) ちいさなさかな (子どもがはじめてであう絵本) きいろいことり (子どもがはじめてであう絵本) ふしぎなたまご (子どもがはじめてであう絵本) こねこのねる (子どもがはじめてであう絵本) ちいさなうさこちゃん (子どもがはじめてであう絵本) うさこちゃんとどうぶつえん (子どもがはじめてであう絵本) うさこちゃんとうみ (子どもがはじめてであう絵本) ゆきのひのうさこちゃん (子どもがはじめてであう絵本) てぶくろ―ウクライナ民話 (世界傑作絵本シリーズ―ロシアの絵本) おおきなかぶ―ロシア民話(こどものとも絵本) ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集) くつくつあるけ (福音館 あかちゃんの絵本) きゅっきゅっきゅっ (福音館 あかちゃんの絵本) おつきさまこんばんは (福音館 あかちゃんの絵本) がたん ごとん がたん ごとん (福音館 あかちゃんの絵本) ぽぽぽぽぽ (偕成社の五味太郎絵本) おやすみなさいおつきさま (評論社の児童図書館・絵本の部屋) まよなかのだいどころ

つづきは、また今度。

12月 3rd, 2009

「子どもゆめ基金」廃止について思うこと。

民主党が進めている「事業仕分け」で、子どもの読書推進を目的に設立された『子どもゆめ基金』の廃止が決まりました。日本国内で子どもたちの読書推進活動や読み聞かせに関わっている方々からは、反対の声も多く聞かれます。

けれど、私はちょっとだけ、違う方向から『廃止』を受け取っています。

私のように海外で日本語維持に関わっている場合、普遍的なテーマとしての

「子どもたちに本を読んでもらうためには、どうすればいいか」

という問いと、それから

「子どもたちの日本語を継承してゆくには、どうすればいいか」

という二つの、微妙に関係するような関係しないような問題が同時に存在してきます。ここが、難しいのです。「日本語を忘れてしまっても、在住国の言葉(私の場合は、英語)で読書が出来ていればいいじゃないか」という意見だって、海外に永住予定の場合には十分に正当で、むしろそのほうがいい、とする向きもあるからです。

だとしたら、子どもたちには、早くから英語に馴染んでもらった方がいい。日本語の文庫などより、英語の良質の絵本を集め、英語での読み聞かせを推奨して、無尽蔵にある英語の本に向かわせる努力をすればいいじゃないか。

読み聞かせか日本語維持か。私のやっていることは大きな矛盾をはらんでいます。ねじれたゴムが戻ろうとするのを必死に押さえ込んでいるような不自然さ、横車を押しているような理不尽な感じ、がいつまでもいつまでも残るのです。

この不自然さを乗り越えるために、私はいつも、周囲に、「日本語維持は本能の成せる技なんだよ」と、伝えることにしています。人間にもやっぱり種の保存の本能があり、『言葉を使う』という行為は、その有益性がゆえに、食べ物を得るとか子孫を作るとかと同じように種の保存の法則に則って親から子へ伝えられるようになってきたのではないかと思うのです。

言葉を使い、読む力を養うことで、ヒトは生きる力を蓄えてゆきます。そうすることで、私たちの遺伝子は他より少し強くなり、生き残る確立が増します。

そうおもうとね、やっぱり、本来、読み聞かせって親と子に始まるべきものなのじゃないのかなって、思ってしまうのですよね。だとしたら、読み聞かせが必要なのは、子どもたちだけではないんんじゃなかろうか。本能を忘れてしまった大人たちへの働きかけもまた、重要なんじゃないだろうか。

子どもゆめ基金の内情がどうだったのかは知りませんが、少なくとも「子ども」だけを対象にしてしまった時点で、大切なことの半分をとりこぼしてしまっていたんじゃないかな。基金を使ってイベントや講座を開催したとして、その情報は果たして「読み聞かせに興味のない大人」にまで届いていたでしょうか。結局、「元々興味がある大人」にまでしか届いていなかったのではないでしょうか。

もちろん、読書推進も日本語維持も、結果が出るまで時間がかかる活動だけれど、でも、だからといって3年、5年といったスパンでの結果が重要でない、というわけではないはずです。今回の事業仕分けで、子どもゆめ基金が「結果を出していない」と評されたのは、その辺の詰めの甘さがあったのではないでしょうか。

子どもたちを読書の世界へ誘うのは、大切な社会的投資です。
だからこそ、聖域にしてしまってはいけない。子どものためだから、だいじなことだから、というスローガンが免罪符になってはいけない。結果度外視ではいけないのだと思います。

11月 24th, 2009

海外で日本語・実践編・ホントのホントに最初にやること

最近、すこし、「上から目線」になってるかなーと、気になっています。
なんかコイツえらそー、って思っちゃった方、失礼しました。

海外で日本語、それも家庭をベースにした継承語としての日本語、を考える時に、考える材料としての情報があまりにも足りない、と思うことがいまだに多いのです。私自身の経験は、ささやかな一個人のさささやかな経験に他なりません。情報としての価値も、ほとんどないのかもしれません。ですが、そんなものでも、もしかしたら今、こうしてネット上で情報を探している誰かのお役にたつこともあるのかしら、と、なんだかそんな感じで、書いています。

だって、言葉って伝えてゆくものでしょ?
私が経験したことを子どもに伝えてゆく行為そのものが、言葉を醸す材料でもあり、言葉を使う理由でもある。私が経験したことをネットを通じてあなたが受け取ってくれるのならば、そしてそのことがあなたの役に立つのかもしれないのならば、それこそが、言葉が言葉として存在しうる意味、言葉たる所以のような気が、するのです。

ああまた、わけわからないこと書いちゃった。

さて。
すごく沢山の経験があるわけではないのですが、過去9年間、それなりに人に会い、ニュージーランドで育つ日本の子どもたちの色々な事例を見せていただいてきました。

バイリンガル、継承語維持の道はことのほか険しいなあ、と思ってしまうのは、やっぱり、親の意思に反した結果になってしまい、そのことを親自身が受け入れきれていない場合です。多いのは、子どもの日本語が思ったように伸びず、子どもの反抗にあったりもして、親が自分自身に言い訳しながら諦めてしまうケース。

こういう場合によく言われるのは「親子間のコミュニケーションが断絶しやすい」という、脅し文句に近いもの。だけど、そういうケースには、実は出会ったことがありません。子どもたちが日本語を話さなくなっても、それはそれで親子がきちんとつながっている例の方が、多いくらいです。

日本に住む日本人の家庭でだって、親子の断絶なんてよく起こります。
だから、このことをことさらに怖がる必要は無いのだと思います。
自分の気持ちを伝える手段は、言葉だけではありません。

でも、そうは言っても、手っ取り早い道具として言葉が使えないことの影響は、たぶん、小さくはないと思います。残念だけど、言葉ほど便利に、手軽に使えるコミュニケーションツールは、今のところ他にありません。それに、継承語教育、とは「子どもが嫌がったらやめてもいい」もの、習い事と同列に並べられるものなのでしょうか。親が諦めてしまったときに失うものは、コミュニケーションツールとしての言葉、だけでしょうか。

海外で親になったり、これから親になる予定があったりするならば、家庭内でのコミュニケーション手段としての言葉の方針は、10年、20年というスパンで持っていた方がいいのだろうな、と思います。特に、家庭内に二つ以上の言語が存在する場合、

あなたと配偶者、
あなたと子どもたち、
配偶者と子どもたち、
家族全員、
家族全員+配偶者側の家族
家族全員+あなた側の家族

など、様々な状況でのコミュニケーション手段としてどの言葉を選ぶか、周囲とある程度のコンセンサスをとっておいた方がいいのだと思います。

親が諦めてしまうことの原因の一つには『思ったように行かない』、つまり10年先のことが見えない、という事実があると思うからです。あなただけでなく、周囲の人々にとっても。

見えないものは見えないのです。だから、先々のことをやたらと不安がる必要は、ないと思います。
ただ、将来起こりうる不測の事態に対して準備出来るものは『方針』くらいしかない。それも事実です。そして『方針』さえしっかりしていれば、ひとは意外とぶれないものです。

私自身は国際結婚をしていませんし、自分が『言葉系』の人間ですから、息子と日本語で会話するのはあまりにも自然なことでした。ですから今も、ニュージーランド人の友達の前でも、息子とは日本語で話します。ですが中には、この私の姿勢を嫌う人もいます。

「日本語なんて教えてなんになるの、英語を教えなさいよ」

と面と向かって知人に言われた時には、さすがに凹みました。

これは、他人にいわれたことですから、凹みはしましたけれど私自身の信念に影響を与えるほどの強さは、ありませんでした。でも、同じことを例えば配偶者にいわれたり、家族にいわれたりしたら、その影響力は私の場合とは大きく違うでしょう。

だからまあ、はっきり言えば、子どもたちに日本語を伝えたいと思うのならば、周囲も巻き込んである程度「根回し」しておいた方が、自分自身もぶれないし後々穏やかかもしれないよ、ということです。

「根回し」の方法も、いろいろありますよね。
バイリンガル教育に関するポジティブな情報をいっぱい散らかしておく、とか(この手の考え方は現在のトレンドですから、ネットを叩くと英語でもたくさん出てきます)、日本のいいところをいっぱい紹介して、日本というあなたのバックグラウンドを「かっこいい」というイメージに仕立てておく、とか。折り紙とかポケモンとか巻き寿司とかも、結構使えるツールですよ。

11月 23rd, 2009

海外で日本語・実践編・まず最初に、なにをやりますか?

このところクモの巣だらけにしていたんですが、久しぶりにコメント頂いて、ちょっとやる気が出てきたところです。単純なヤツだ>私。

ところで。
Googleのアクセス解析によると、検索サイトを通じてこのサイトに来て下さる方は多くが、「海外 日本語教育」とか、「海外 通信教育」とか「あいうえお表 ダウンロード」とか、そういう検索ワードでお出でなんですね。たまに、「継承語」なんていう専門用語も出てきたりして。

以前も書いたことがありますが、つまり、そういう情報を求めている日本人の家族が、世界中に増えているのだなあ、と感じています。だったら積極的に情報のシェアをしようじゃないか、と思い立ったのが、もともとは海外生活&子育てブログだったここを、なんだかバイリンガル教育の巣、みたいにしてしまったきっかけです。

ま、息子も成長してしまって、幼児期のようなパンチのある子育てネタが減ってしまいましたからねえ。ネタに困って、ってところでもあったりしますが。

で、まあ、海外で親になった、と。
息子を日本語で育てることに躊躇や迷いは全然感じなかったのですが、実際の方法論が何もなくて、最初はちょっと、右往左往しました。で、活字系人間の常として、ネットでばんばん検索を掛けてみたわけです。

そしたら、意外とあるんですよね。そういう情報が。
そこで拾った情報の中の、知らない言葉や研究者の名前をキーワードにしてまた検索かけて、いくつか参考書を拾い出しました。日本に帰国したおりに図書館でぱらぱらめくってみて、これはいい、と思ったものを購入し、ニュージーランドに戻る、という感じで、いつの間にか結構な数が本棚に並びました。

私の場合は、バイリンガル教育の参考書に限定せず、読書教育や一般教育書の分野も探しました。なんて言うかな、日本語での読書量がカギになるんじゃないかな、って、最初から思っていたんです。根拠はなくて、まあ、ただの勘だったんですけど。

そこで、自分の勘にぴたーっとハマってきたのが『読み聞かせ』でした。絵本オタクの血も手伝って、そちら関連の本も読み漁りました。

そうやって集めた情報を、よくわからないまま自分の中に転がしておくと、実際の子どもたちを目にした時に、その『情報』が突然、化学反応を起こすことがあります。

そうか、このことか!

・・・って、ぱちんと箱のふたが開くような感じで、情報として持っていたものが、理解とかアイディアに変わるんです。そういうのをくりかえしながら、ここまで来ました。

だから、自分の体験から言うと、やっぱり最初は、情報を自分の中に取り込むことじゃないかなー、と思います。入れてないものは、出せないからです。

というわけで、私がここまでに読んできた参考書の一部を一覧にしてみました。(あまり参考にならなかったものは、省きました。)
どの本からも、学ぶことは沢山ありましたが、敢えて一冊、是非読んで欲しいと思うものを挙げるとしたら「クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々」です。

画像はアマゾンへのリンクになっています。興味のある方は、アマゾンのサイトでレビューなどを参照してみて下さい。

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々 バイリンガル教育の方法―12歳までに親と教師ができること 異文化に暮らす子どもたち―ことばと心をはぐくむ 異文化に育つ日本の子ども―アメリカの学校文化のなかで (中公新書) バイリンガルの世界 えほんのせかい こどものせかい サンタクロースの部屋―子どもと本をめぐって 読む力は生きる力 絵本論―瀬田貞二子どもの本評論集 ことばの発達を促す手作り教材 心に緑の種をまく―絵本のたのしみ (新潮文庫) グランマの本棚から―親と子の100冊 (生活人新書)

滞英中の子供の言語発達―両親のためのガイド これは実践的です。
5歳から8歳まで―子どもたちと本の世界 『クシュラの奇跡』のドロシー・バトラーによるブックリスト。
子ども・本・家族 これもドロシー・バトラー。

11月 22nd, 2009

海外で日本語・続3「どうして日本語を伝えたいのですか」

このところ、年甲斐もなくIELTSの試験準備などしています。宿題に追われて忙しく、しばらく放置してしまいました。

しかし、そんなクモの巣寸前のブログでも、見つけて下さる方がいらっしゃる、というのは嬉しいものですね。ウェブの大きな特徴は情報の蓄積性だそうですが、それを実感しました。

前々回のエントリ海外で日本語・続2「どうして日本語を伝えたいのですか」に、ニュージーランドから見ればほぼ地球の反対側、ベルギーからママと呼ばないで in ベルギーの赤かっぱさんより、ご訪問、コメントを頂きました。ありがとうございました。

日本語にまつわる葛藤、は、海外在住で明確な帰国予定がない家庭にとっては、逃れられないものだと私は思っています。教えるか教えないかの葛藤に始まり、そこでどちらの選択をしても、なにか違和感のようなものが結局、親の側には残る。割り切れた答えに到達出来ることはたぶんなく、どこまで行っても100%になり得ない。

私の場合は、自分自身が『言葉系』の人間なので、子どもと日本語で話せなかったら自分自身が絶対に辛い、という確信に近いものがありました。だから最初の選択には迷いませんでしたが、以来8年間、壁にぶつかる度に、今なお自問自答を繰り返しています。どうして日本語を伝えたいのだろう、と。

言葉を伝える、という行為には、見える利と見えない利とあって、例えば将来、履歴書に「二言語が出来ます」と書ける、ということも、やっぱり、重要な見える利なのですよね。赤かっぱさんのブログに書かれていたファミリーネームのことしかり、うちの息子が黒い髪黒い眼をもち、遺伝的にニュージーランド人のような屈強な体は望みようがない、という現実、親の英語がちょっと変、という事実、どれも、結局子どもが選びとったものではなく、だけど子どもにとっては逃げようがない事実です。だから、子どもから見た時にその立場は、見方によっては『へこみ』、つまり不利益に映ってしまうこともあるでしょう。

そんな時に、『でも自分は二つの言葉が出来るんだ』という精神的、実質的な『でっぱり』を与えてやりたい、と思うのは、自然なことですよね。でも、その感情が何故『自然』に起こるのか、私には説明出来ません。

子どもが選んだわけではない不可逆な違いを背負い込ませる立場の私は、親の側から見た視点で、継承語教育は本能の成せる技だと信じることにしています。継承語を伝えることで、この社会ではマイノリティである立場の息子にある種の有利さを与えることが出来、それが息子の生存率を上げる助けになる、というか。種の保存の本能かなあ、と。なんだか、そうでも言わないと本当に、芯の芯のところは説明がつかないんですよね、どうしても。

ですが。子どもの側からすれば、日本語もやらされるなんて余計なお世話になりかねないわけで、ともすればかえって日本語嫌いにしかねない危うさが、いつもつきまといます。その辺のバランスの取り方が、鍵なのかな、なんてつらつらと考えたりします。

ご訪問くださった皆様、赤かっぱさんのコメントも、是非ご一読くださいね。

それから、このテーマについてはぜひ、今後ともコメントをお寄せください。
あなたは、なぜ、子どもたち日本語を伝えたいのですか?

9月 29th, 2009

海外で日本語・言葉の変遷、息子の場合

息子は8歳半です。

生まれてから5歳までは、ほぼ日本語だけで育ちました。幼なじみも、ほぼ全員が日本人または家庭内日本語の国際結婚家庭の子どもたちでした。

5歳で現地校に入り、5歳後半から、英語の友だちが出来はじめました。
始めは、カタコトの英語または単語でコミュニケーションしていました。当時の息子は「サイレント・ピリオド(かん黙期)」に近い状態にあり、学校や英語を必要とする環境では、とても口数が少なかったのです。ですから、友だちとの遊び方もきわめて受け身的でした。

口数が増えて来たのは、7歳前後からでしょうか。日常のコミュニケーションにはほぼ問題がなくなり、友だちに対してある程度の自己主張を出来るようになったのもこの頃でした。この頃から、日本人の幼なじみとも英語まじりで遊ぶようになりました。ただ、大人や日本語優位の子が介入すると、日本語に戻っていました。

この頃までは、まだ、長期休み明けや日本へ帰国したあと学校に戻ると、英語が出ないことがよくありました。6歳半の夏休み、明けてみたら英語のアウトプットがすっかり減っていて、自信もなくしており、本当はそこで進級の予定だったのを学校に話して遅らせてもらいました。7歳2か月で5週間日本に帰り、日本の小学校へ体験入学したあと、息子はニュージーランドの学校の教室に入れず、2日間自宅待機しました。

今年は、日本人の幼なじみとも完全に英語だけで遊ぶようになりました。私が割り込んで日本語で一緒に遊ぼうとすると、見せつけるように、あるいは対抗するように英語で遊びはじめます。あるいは、すっと離れていってしまいます。

まあ、喜んでいいことでもあるんですけどね。それだけ、英語での表現力が伸びた、と言うことですから。

でも、なんか、ちょっとさびしいなあ。

子どもたちが英語を覚え始めるのは、遊びからです。
日本語を忘れ始めるのも、遊びからです。

友だちの比重が大きい『遊び用語』のインプットは、どうしても英語に偏るからです。そして子どもたちは、英語で入って来たことを日本語にしてアウトプットすることが出来ません。これがどうしてなのかは、私もまだわかりません。ですが、そうであることは経験的に明白です。

8歳、9歳、『ギャングエイジ』と呼ばれる時代になると、子ども同士の遊びに大人が割って入ることは、案外困難になってくるのですね。ですから、あそび、という環境の中で使う言葉は、圧倒的に英語になってゆく。

仕方ないことです。

でも、だからこそ『ギャングエイジ』を迎える前に、親や周囲の大人にたっぷりと、たぶん日本に住む子どもたちよりもたっぷりと遊んでもらい、遊びのための日本語を貯めておくことが、必要なのだと思います。その言葉の貯金が、その後の『学びのための日本語』を育ててゆくのだと思います。

小さいお子さんをお持ちの方、そしてそのお子さんと一生、日本語で話していきたいと思っている方、どうぞ、たくさんたくさん、子どもたちと日本語で遊んであげて下さい。お皿が汚れていても、洗濯物がしわくちゃでもいいではないですか。そして、子どもたちの言葉の水鉄砲に、沢山の日本語をインプットしてあげて下さい。

こどもたちは、今しか、あなたと遊んでくれないのですから。

9月 29th, 2009

海外で日本語・続2「どうして日本語を伝えたいのですか」

前回のエントリー海外で日本語・続「どうして日本語を伝えたいのですか」に、更にお二方からコメントを頂きました。「ニュージーランドマイナーインフォメーション」のクライストチャーチ住まいさん、「言の葉ひらひら – Wordy Leaves」のkuriksさん、ありがとうございました。
クライストチャーチ住まいさんからは、

>日本人としての誇りを持ってもらいたいから、です。

というコメントを頂き、そして、「誇り」ってなんだろう、と、あらためて少し考えました。

私は、出しゃばりです。日本の自慢をするのが、たぶん、好きです。日本のことを、みんなに知ってもらいたいと思います。だから、息子の通う幼稚園や小学校で、何かの折りに日本のことを紹介してきました。折り紙クラブをやったり、こどもの日とひな祭りには、ちょっとしたプレゼンテーションを毎年、やってきました。

もしかしたら、「誇りを持つ」ってこういうことなのかなあ、とも思います。

外国で育つ子どもたちは、日本語が苦手になります。苦手を通り越して、苦痛になることもあります。黒い髪、黒い眼がいやだ、といいます。周囲よりも小柄な自分を、情けなく思ったりします。日本人の親の日本語訛りの英語を恥ずかしいと思い、その親が自分に日本語を話すことも、恥ずかしいと思います。親が日本人であることを受け入れられなくなることもあります。

どんな状況でも子どもはコンプレックスを感じます。そのことが子ども自身を成長させることもまた、事実だと思います。けれど、環境要因から来る「コンプレックスの種」の絶対量が、海外に住む子どもの場合にはどうしても、多くなります。マイノリティ故に跳ね返さなければならないもの、立ち向かわなければならない目に見えないものが、多くなります。

そんなとき、親に出来ることってなんだろう。

誇り、という言葉から、つれづれとそんなことも考えました。

もうお一方、kuriksさんは、北米で日本語補習校にお勤めの方だそうです。現場ならではの内容の濃い情報を、沢山寄せていただきました。ありがとうございました。

このブログに検索からお出での方が使われるキーワード、最も多いのは

「海外」「日本語」とか、

「あいうえお表」「ダウンロード」とか、

「海外在住」「バイリンガル」「子ども」とかです。

アクセスも、世界中から頂くようになりました。それだけ、情報を欲している方が多いのだろうと思います。コメント欄のkuriksさんのコメントにも、みなさん、是非目を通してくださいね。

引き続き、どうぞお気軽にコメントをお寄せください。

あなたは、どうして子どもたちに日本語を伝えたいのですか?